日朝関係)その1

この時代には朝鮮は未だ南北に分かれていなかったので、本章では一括して日朝関係といい、半島の国を朝鮮と言いましょう。日朝関係に関し、不完全なものとは思いますが別表I)の如く年表を用意いたしました。これにより少しでも読者の皆様の明快・明確な日朝関係のご理解のご参考になればと思います。

朝鮮に関しては不思議に思う事ですが、日本が対外的に拡張を言う時、先ず出てくるのが朝鮮であります。具体化した回数は少ないのですがーーー勿論こんな回数が多いとそれこそ問題がいっそう大きくなりますがーーー神功皇后の時、秀吉の時と2回過去にあり明治ー大正ー昭和とかけての徹底的なものが最後の1回であります。不思議と言うのは、つい先頃まで高速道路を巡って国内で誘致合戦を行っていたような状況、言葉を変えれば国内の行政が未だに完成していないような状況、又、地方には過疎問題があるような国が何ゆえ海外にまで国土の拡張を求めたのか、実際のところ何か狂っていたとしか思えないのであります。資源問題といっても当時も日本のアキレス腱は石油であり、朝鮮からは一貫して石油は出てこないのです。それこそ“重厚な物質の中の意識の夢遊状態”に陥っているとしか言いようがありませんが、このような狂いは一体どこから生じてきたのでしょうか、否、一体誰の想念が起点となったのでありましょうか。

1885年12月に太政官制度を廃止して、内閣制度を敷きました。このときから政策のブレは激しくなっていくのですが、「文明開化」、「富国強兵」の明治のスローガン丈で日朝関係をおかしくしたのでもありませんし、所謂‘列強’がやりたい放題のことをやっていたから(例えば米国は1893年1月ハワイの王政を武力〔海兵隊〕をもって打ち倒し、1897年6月に併合しています)その影響を受けた丈でもないように思います。申し上げたように、それは今の日本でも同じ事ですが、日本の国民にとりその国土は十分に広いのです。ですから他国を侵略しなければいけないような理由は何処にも無いのです。筆者は、そこで登場する一人の政治家の想念が非常に歪んだものであったとしか言いようが無いと考えています。

日朝関係)その2

それは、初代(1885年)の首相の伊藤博文であります。彼は明治憲法を始め明治の政府の枠組みを作りました。従って、この政府の行くべき方向も大きく彼によって規定されたと考えます。彼は都合4回組閣していますが、全くの話、訳の分からない議会制度をつくり明治天皇のお力を背景に力のバランスの上を泳いでいたような人物との印象が強いのです。具体的には衆議院貴族院のほかに、枢密院を作り政治制度を複雑に致しました。(そのほかに軍事参議院というのまで有ります。)

注目すべきは彼の視察であり、年表の如く1888年6月には朝鮮漁港とウラジオストック地方、さらには1898年8月に清国を視察しています。これらの視察対象地域、或いは国は総て後になって紛争或いは侵略の対象となっております。彼は1909年10月にハルビン駅頭で朝鮮の独立運動家、安重根の銃弾により暗殺されますが、私どもの今の平常の感覚からすれば、伊藤博文という人は非常に狂った日本人であり他国の侵略に狂奔した犯罪人であり、当然の事ながら朝鮮の人々から大きな恨みを買っていたのでしょう。年表をご覧いただいて分かるとおり、日本の朝鮮侵略の手口は同じ日本人でも嫌になるくらい陰湿で陰険なやり口でなんとも忸怩たる気持ちになってしまいます。

日本による侵略の手口は鉄道から入りました。この手口は後年の満州を乗っ取る時にも応用されました。即ち1894年8月京仁・京釜鉄道の敷設権を獲得している。京仁鉄道は1900年11月に開通しています。京釜鉄道については、1898年9月に改めて敷設の条約に調印しています。さらには1904年3月には、先に南北朝鮮間で話題になった京義鉄道敷設権も得ています。そして京釜鉄道も完成し、1906年には京仁・京釜両鉄道を日本が買収しています。満州の場合も全く同じやり口です。これによって侵略の為の橋頭堡を築いたのです。

日朝関係)その3

目に見える形で朝鮮が日本に自由を奪われたのは1905年12月の韓国統監府の設置ですが、その命運を決したのは1902年10月の第一次桂太郎内閣のときに479万円の支出を清韓事業費・経営費(即ち中国と韓国を侵略する為の工作費用)として閣議で決定した時でありましょう。桂の後ろで伊藤が糸を引いていた事は疑う余地の無い事実であろうと思われます。つとに有名な処でありますが、日本の官僚機構の愚かな処は「継続は力なり」と言って一度始めたら止められないところにあります。しかも通常は、そうして始めた事柄は、右肩上がりに拡大いたします、これが特徴であり彼らの常套手段です。朝鮮侵略はその典型的なパターンでしょう。

かくして1909年7月の閣議決定韓国併合」に及び太平洋戦争終了の1945年8月15日にまで及ぶ40年もの長きに亘り朝鮮の人々を蹂躙してしまったのであります。「日本が何もしなくても同じような事をロシヤーソ連にやられていたはずだ」というような詭弁は何の弁解にもなりません。日本人として、本当に悪かった、してはいけない事をしてしまった、朝鮮の人々よ御免なさい、どうか許してください、という以外に言いようの無い事態であります。明らかに、人道に対するほか様々な犯罪行為であり、その張本人たる伊藤博文の顔をあろう事か紙幣にも使っていたとは、日本という国は本当に厚顔無恥もはなはだしい国であります。

日本及び日本人としては、これから先、世の終わりまで、それ丈朝鮮の方々に心からお詫びし、誠を尽くさねばならないでしょう。(完)

別表I)年表その1

1888(明21)
6月 伊藤博文、朝鮮漁港とウラジオストック地方を視察する。
1889(明22)
2月 朝鮮・鎮江で排外運動起こる。
10月 朝鮮が日本に対して穀物の輸出を停止する(防穀令事件)。
1893(明26)
3月 朝鮮政府が防穀令に関する日本の損害は4万円と通告してくるが、大石公使拒絶する。
5月 大石公使が朝鮮国王に謁見し、防穀令事件の最終回答を要求する。防穀令問題で妥協が成立、日本に賠償金11万円の支払いを決定する。
1894(明27)
3月 朝鮮で東学党京城請願運動が起こる。
5月 東学党、朝鮮全州を占領。
6月 朝鮮、東学党鎮圧の為清国に援軍を要請。
日本は閣議で混成1旅団朝鮮派兵を決定。日清両国相互に朝鮮派兵を通告。
7月 大島公使が朝鮮に内政改革案を提示する。朝鮮政府に対し清国との宗属関係の破棄を要求する最後通牒を提示。豊島沖で清国軍艦を攻撃。日本軍が朝鮮王宮を占領する。
8月 清国に宣戦布告、日清戦争始まる。日韓暫定合同条約に調印し、京仁・京釜鉄道の敷設権を獲得。日韓攻守同盟調印。
1895(明28)
1月 朝鮮・洪範14条の宣言(独立改革を確認)
4月 日清戦争勝利で終戦
10月 日本軍隊及び壮士、大院君を擁してクーデターを起こし、朝鮮王妃閔氏を殺害する。駐朝鮮公使の三浦梧楼を召還し、京城事件容疑で拘引するが、明治29年免訴となる。