日朝関係)その2

それは、初代(1885年)の首相の伊藤博文であります。彼は明治憲法を始め明治の政府の枠組みを作りました。従って、この政府の行くべき方向も大きく彼によって規定されたと考えます。彼は都合4回組閣していますが、全くの話、訳の分からない議会制度をつくり明治天皇のお力を背景に力のバランスの上を泳いでいたような人物との印象が強いのです。具体的には衆議院貴族院のほかに、枢密院を作り政治制度を複雑に致しました。(そのほかに軍事参議院というのまで有ります。)

注目すべきは彼の視察であり、年表の如く1888年6月には朝鮮漁港とウラジオストック地方、さらには1898年8月に清国を視察しています。これらの視察対象地域、或いは国は総て後になって紛争或いは侵略の対象となっております。彼は1909年10月にハルビン駅頭で朝鮮の独立運動家、安重根の銃弾により暗殺されますが、私どもの今の平常の感覚からすれば、伊藤博文という人は非常に狂った日本人であり他国の侵略に狂奔した犯罪人であり、当然の事ながら朝鮮の人々から大きな恨みを買っていたのでしょう。年表をご覧いただいて分かるとおり、日本の朝鮮侵略の手口は同じ日本人でも嫌になるくらい陰湿で陰険なやり口でなんとも忸怩たる気持ちになってしまいます。

日本による侵略の手口は鉄道から入りました。この手口は後年の満州を乗っ取る時にも応用されました。即ち1894年8月京仁・京釜鉄道の敷設権を獲得している。京仁鉄道は1900年11月に開通しています。京釜鉄道については、1898年9月に改めて敷設の条約に調印しています。さらには1904年3月には、先に南北朝鮮間で話題になった京義鉄道敷設権も得ています。そして京釜鉄道も完成し、1906年には京仁・京釜両鉄道を日本が買収しています。満州の場合も全く同じやり口です。これによって侵略の為の橋頭堡を築いたのです。