日中関係)その1

この関係も明治の出だしから不自然なものを感じます。軍備を強化する一方でリベラルな意見の持ち主を追い込め、言論統制を強めた上で、日清戦争の勝利を経て、1898年8月伊藤は清国を視察しています。朝鮮の所でも触れましたが1902年10月に第一次桂太郎内閣のとき、閣議で清韓事業費・経営費として479万円を決定しています。これが結果としてその後の日本の方向を決定付けたのではないかと考えます。

確かに清国もこの時期不安定な要素がありました。即ち西大后はずしが行われたり西大后のクーデターがあったり、義和団の乱があったりであります。先の479万円の支出の決定は義和団事件(北清事変)の解決のために列強の一員として参加した日本に対して賠償分配金3,479万海関両が6月に支払われた直後の事でありました。即ち日清戦争でも朝鮮の防穀令問題でも、北清事変でも、背景にそれなりの武力を備えていれば列強がやっているようにそれなりに金になったり、領土になったりするものだという実感が徐々に湧いて来ている状態だと思えます。結果として国を挙げてますます軍備拡張路線を突っ走りますが、国のトップがくるっているのだから誰にも止められません。

1903年11月、ロシアが満州を占領したのを口実に日露戦争を行う事になりますが、その時確かにロシアから南樺太(租借権)を取り上げましたが、大半は清韓に関することであります。即ち日本による韓国の保護の承認、遼東租借権、満鉄を獲得しました。この遼東半島及び満鉄を足場として満州、その後の北支経営に乗り出していくのであります。

1912年2月に宣統帝が退位して、清朝は滅亡しました。その後袁世凱中華民国の初代大統領となります。1913ねん10月に、この政府と満蒙5鉄道に関する協定に調印し、敷設権を獲得いたしました。さらに1915年5月に同政府に対華21ヶ条の要求を受諾させましたが、袁世凱は1916年に帝政に反対が出て憤死、黎元洪が大統領となります。

かくして満鉄の業務を着々と拡大し、1917年9月には朝鮮鉄道の経営を満鉄に委任した上で関東都督に満鉄業務を勅令により統括せしめたのであります。このようにして日本は北支に利権を拡張していくのであります。1918年3月寺内内閣が閣議で日中陸海軍共同防敵軍事協定締結方針を決定し、その9月には中国から満州鉱山の採掘権を獲得しています。又、山東2鉄道借款・満蒙4鉄道借款の予備契約を行っています。この頃までは、中国の一般大衆はともかく、政府とは結構旨く行っていて、日本としてもそんなに悪い事をしているようでもありませんが、翌年11月には福州で学生デモが起り排日運動をされております。