日中関係)その2

ところが、1922年7月に至って加藤内閣が閣議で、中国の中央政府・地方政府に日本の現役の軍人を顧問として採用せしめるという事を決定したとあっては、相変わらず相手の意見も聞かず問答無用という形の上の問題もありますが、その内容の悪さは大いに問題となってきたように思います。結果として、1923年には排日運動が激化します。その後は中国国民革命軍(蒋介石)と中国革命軍(毛沢東)の角逐があり、結局日本は国民革命軍と交渉を維持する事になります。

1931年9月に関東軍が柳条溝事件を引き起こし満州事変を起こします。この頃から日本は完全に悪くなりますが、早くもその影に東条英機の姿が見え隠れしてくるのであります。政府は事変の不拡大方針の声明を出しますが、実際には足早にチチハル占領(11月)、錦州占領(1932年1月)、ハルビン占領(2月)とまるで事前にシナリオがあったように事を運び、同時に上海に総攻撃をかけて脅し、3月には満州国の建国を宣言しました。(形を整える為に、執政は清朝廃帝である溥儀を充てました。)ーーー(このシナリオの作成の背景に既に東条英機が居る事は確実です。)同月早速政府は満蒙政権の誘導方針を閣議決定しています。1933年にはこのような日本の行動を見た諸外国の一斉の反発を受けて日本は国際連盟を余儀なく脱退して、独善孤立の道を歩み続ける事になります。

然し乍ら、国際社会は、満州国という事実が出来てしまい、事実上そこに商取引の活発な国が存在すると、国益上それを認めないわけには行かなくなります。こうして満州国は主要国の認めるところとなりました。日本は然し、それでは未だ満足していなかったのです。