日中関係)その4

この演説で孫文が日本に対して言いたかったことは、(日本は覇道〔欧米式の帝国主義〕を捨てて、王道を貫き、干城になれ)ということに尽きると思います。これは欧米型の軍事力を整えつつあり、既に朝鮮は併合し、日増しに中国に対する干渉を強めていた日本に対する大いなるけん制であり、日本は覇道に走って欧米列強の如く他国を侵略してはいけない、むしろ干城(他を助ける為の城)となって王道を歩めよ、さもなくば“らしくない”事をして道を誤りますよ、という孫文の日本に対する心からの忠告だったと思います。昭和天皇の章でふれた如く、米国をまともな国に変え、その他の国に対して干城たる事は、実は昭和天皇が求められていた事のように思います。

孫文の忠告の甲斐も無く、その後の歴史が示すとおり、日本は誤った覇道に精を出すこととなり破局へと向かっていくのです。

話は変わりますが、日本にかのウメヤ庄吉という中国びいきで、何とか中国と日本が争う事を避け平和を保とうとたゆまぬ努力をした人が居ました。彼は孫文、中華革命党、国民党、蒋介石始め国民政府首脳と時代を追って昵懇でありました。その庄吉が何とか中国側と日本陸軍との間を取り持とうとして、1932年(昭和7年)12月2日に陸軍側と会談を持っております。六興出版、「国父孫文梅屋庄吉」車田譲治著の文章をご紹介いたしましょう。

陸軍側は、荒木陸相参謀本部作戦課長・小幡敏四郎少将、それに編成動員課長である東条英機
庄吉は、先ず孫文との交遊から説き起こし、中華革命党、国民党、蒋介石はじめ国民政府首脳との関係を、持参した写真、書簡などを示して、詳細に語った。
その上で、中国の政情、要人の人脈、利害関係を明かし、中国側の真意を知り、了解を求める工作の接点になろう、との決意を、庄吉は訴えたのである。
会談の当初、東条英機が拳を差し出しながら、「満州は、これで取ったのですぞ。チャンコロのいう事なんぞ聞けないなあ」と、冷笑する一幕もあったがーーー。

筆者は、上記の記載は事実であると思う。日本が満州を武力で奪い取った直後の事であり、先に触れた如く、東条英機がこの満州奪取のシナリオを描く段階から参画していた様子が伺われるものであります。