日中関係)その5

その後日本軍は事実上中国を武力で制圧し1940年11月の御前会議で支那事変処理要綱を決定し、それに従って日華基本条約並びに日満華共同宣言を調印し、満州国を中国も含めて既成事実とし、日本の中国に対する支配を確立した上で、1941年9月の御前会議で「帝国国策遂行要綱」を決定し米英蘭との開戦を決意したのであります。

結局、長崎に2発目の原爆が投下される1945年8月9日の未明、約束を破ったソ連軍が満州樺太北朝鮮に進出する事により日本のよこしまな夢は孫文の予言どおり敗れ去ったのであります。

この間3度組閣した近衛文麿は複数の声明を発し「(大)東亜新秩序建設」を謳っています。干城、即ち欧米の列強にいいようにされている大東亜の人々を日本が守っていくのだということでありましょう。然し、近衛のやった事は単なる侵略でした。朝鮮の併合の場合と全く同じで、中国の人を人と見ない極めて身勝手な言い分で、一人日本人だけがよければという考え方に基づいています。結局は、覇道に走り、近隣の諸国に多大の迷惑をかけた上で予想された如く、敗れ去ったのであります。ただこの間本当に悪かったのは誰か、日本人として自ら戦争犯罪人を探さねばならないとなったら、それは先ず東条英機であります。

戦後日本人が残していった孤児達を育ててくれていた、中国の人たちの暖かさに、日本人は何と答えればよいのでしょうか。自分達だけの身勝手な夢を追い求めて近隣の国々を傷つけた私達日本人は、この中国の人々に何と言ってお詫びすればよいのでしょうか。それこそ1億総懺悔でしょう。(完)