太平洋戦争)その1開戦前夜〕

1939年9月ヒットラーのドイツ軍、ポーランド侵入。英仏、ドイツに宣戦布告し第2次世界大戦が勃発しました。政府は大東亜関連で南進の意図があるため、直ちに欧州戦争不介入と声明しました。1940年2月ハル米国務長官が日ソ両国に対して中立法不適用と発表いたしました。7月に「基本国策要綱」を閣議で決定いたしました。大東亜新秩序・国防国家の建設方針を決めました。大本営が政府の連絡会議で武力行使を含む南進政策を決定いたしました。9月に早速、日・仏印軍事協定を成立させました。同月ベルリンで日独伊3国同盟に調印いたしました。10月にはアメリカは、くず鉄の日本に対する禁輸処置を実施いたしました。1941年4月モスクワで日ソ中立条約に調印いたしました。同月ハル長官・野村大使が日米交渉を開始いたしました。7月アメリカは国内の日本資産の凍結例を公布いたしました。これにイギリス、フィリピン、蘭印も同調いたしました。8月1日にアメリカは日本に対する石油の全面的な輸出禁止処置を講じました。9月に御前会議で「帝国国策遂行要綱」を決定いたしました。これは10月下旬を目途に米英蘭に対する戦争の準備を整えるというものでありました。11月1日に大本営政府連絡会議においてアメリカとの交渉期限は11月30日の深夜12時までと決定されました。即ちそれまでに交渉が纏まればよし、纏まらない或いは決裂という事態になれば直ちに開戦ということであります。この会議には、東条(首相・陸相)、島田(海相)、杉山(参謀総長)、永野(軍令総長)、賀屋(蔵相)、東郷(外相)、塚田(参謀次長)らが出席いたしました。席上、永野軍令総長は「戦機は今、開戦後2年間に就いては確実な成算がありますが、3年以降に就いては見通しが立ちません」といっています。

以上のように開戦前夜は双方であわただしい動きが見られます。日本は南進政策を決め、仏印方面を固める一方で、アメリカは日本を現在の「ならず者国家」よろしく資産を凍結したり経済封鎖をしたりして締め上げるのに躍起になっておりました。勿論日本にとって一番頭の痛かったのは石油でありましたが、これに関しましては当時海軍は1年半分程度の備蓄はしておりました。即ち、当時日本の消費は年間400万KLのところ海軍の在庫は558万KLでした。開戦前後の西太平洋は米・英・蘭・ポ・日の所謂列強の利害が入り乱れておりましたが既に始まっている第2次世界大戦において敗れ去っている国も中にはあり、実際上日本の進む先でアメリカ以外の抵抗は殆ど無い状態でありました。そんな中で日本は東条英機の下、石油の為にいよいよ12月8日のアメリカとの開戦を迎えるのでありました。日本が米国との戦争で懸念のあった石油に関しましては蘭印(オランダ領インド、即ち現在のインドネシア)のスマトラパレンバンに油田があり年産470万KLの生産があり日本の消費をまかなえるものでありましたが、1940年5月に既にオランダがドイツに降伏していた関係で容易に手にはいることになります。